シキロクログ

6年前の自分は他人

メモ

状況は悪化を辿っております
ツイッターで書いたらフォロワー減る
親に弱音を吐けば難色を示される
ならばブログしかなーい
チラシの裏は無い
書いたものは読んでもらえるかもしれないという「可能性」を好んで食べる生物である自分
チラシの裏で我慢するなら小説なんてweb上に書き捨てたりしない

ただし今の状況はきつい
心が折れる音は明確に聞こえた
周りも折れているように思う
建て直さないといけない
なにで、どうやればいいのかもわからない

許されるなら死んで逃げたい
手続きもろもろが面倒だからさくっと死にたい
遺された人にはあの世でごめんなさいを言う
あの世なんて信じちゃいないけどさ…

なおこういう精神極限状況で書く「なに言ってんだこいつ」みたいな文章は自分できらいじゃないのでこうして書き留める
昔から「○○ができないから死にたい」が連続していた
今をもって死んでないからそういうことだ
だから特に心配はしていない
しかし精神はどん底
大人になんてなるもんじゃない

自分が死ぬ代わりに今は物に死んでもらっている
物を捨てるのが楽しい楽しい
捨てられないものも多くて悲しい
頑張って集めたから
まだまだ好きなものだから
高かったから
捨てられない

そして捨てようと思ったプラスチックに指をやられて血が吹き出た
プラスチックの傷は結構太いのと血が出るまでタイムラグがあるのでめっぽう心にくる

今もまだ痛い

経験則は未来視を可能とする

来週には世界が滅べと思い
再来週には自分が死んでしまいたいと思う
前後はありえる、期間変動もありえる、
しかしそれは確実に来る

地獄の渦中に居る
内臓がこの旅の道連れである

これらを訳すと「多忙」になる

自己

note書くだけで3時間かかった。
人に見せる前提の文章は骨が折れる。
綺麗にラッピングする作業に楽しみを見出せない。

でもまとめないと次に進めない。
区切りをつける。
葬式みたいなものか。
葬式にはあまり参加したことない。
1回だけだ。

冠婚葬祭とはまだ縁が遠い。
だからよく人が死ぬ話を書くのかと雑な自己分析。
死が遠いから死への憧れがある。

たまに目を閉じて自分が死んだらこの思考はどうなるのかと考えることごあるけれどいつも結論が出ず途中でやめる。
死ぬって言っても高確率で事故死病死おもわぬ死亡になるのではと考えるとなんかもう身体を大事にして生きていこうな。

死ぬのが怖いなら生まれてこなきゃ良かったんだ。
卵子へのレースを制した精子に文句を言えばいいのか?
自分の思考は卵子がベースなのか?精子がベースなのか?
ふたりの意思はどこに消えた?
統合されてここにいるのか?
自分より先に死んでいるのか?
だとしたら、かわいそうに。

本が届いた話

近況。
結局キーボードを買った。
Bluetooth対応の持ち運び用。
スマホ用だが、半角英語が打てなくて困っている。

本題。
親から「怒らないコツ」とかいう本が届いた。
基本的に穏やかだと自負している自分には不要な本だと思った。
嘘。スクリプトがうまく動かない時と追ってるコンテンツの展開が不満な時はめっちゃ怒る。

さて、この本は親が新聞広告で見つけたものだそうだ。
借りて読んで、良かったから、近しい人に送っていると。
自分は事前の雑談でこの本に触れられてたからまだ良かったが、もしも急にこんな本が送られてきたら宗教か何かと身構えたかもしれない。
事実、前振りなく送られた伯父からは特に反応はないと聞かされていて、まぁそんなもんだろう。

前述の通り自分は穏やかだと自負しているので、どのページを読んでも特にピンとくる項目は無かった。
基本的に自分に何かしてくれる人にはそれなりに返したいタイプなので「この本よかったよ」と言えればいいけれど本当にピンと来なかったのでいかがなものかと悩んでいる。
そもそもターゲット層も違うのだと思う…もっと上の世代向けかと…怒らない上司になるためには、と言われても部下とかいないし…。

同封の手紙によれば、本を送ったのは「こうしなさい」という意図はない。自分が感銘を受けたからだと。自分は怒りっぽいから…ともかかれていた。

しかし親に声を荒げて怒られた記憶はない。自分が忘れてるだけかもしれない。
ただ、親が感じた憤りはジョーク等でごまかして、うまく逸らしている様子は何度も見た。
おそらくは怒りを溜めていたのだろう。うちの家族には「変化球」と我々が称するほど捻くれている者がいたのは事実なので。
(補足するが自分は家族をとても尊敬している)

同封の手紙には続きがあり「達成している箇所も多くて嬉しかった」(意訳)とあった。
この本を送った意図のひとつに「自分はこれを意識して頑張っているよ」と示したかったのでは…と思い至った。本人には言えない。
しかも自分の子供に「あなたはよくやっていると思う」と言われるのはいやだろうな…と思ったのでとりあえず日記に書いて発散する。
親はインターネットなんてしないので、この雑な考察を見られることもないだろう。

さてこのまるでピンとこない本、自室において誰かに見られようもんなら「この人怒りっぽいのかな…」とあらぬ疑惑を抱かれそうな本。
どうしたもんかと値段を見てみたら、まぁ親からしたら奮発した値段のものだ。新品だし。売るのも捨てるのも忍びない。

怒りっぽい人を想像する時につかえばいいのでは?という、実に小説書く人っぽい「手元に置く理由」を思い浮かんだのでよしとした。
本ありがとう。

ところで親はインターネットをしないので自分の出した電子書籍は読めない。

みんな釘のせいだ

みんな釘のせいだ

なんかPR記事みたいになったけどこれ自分のブログだしな、ということで了。

2019年

自分の考えを言うことが「嫌いである」ということに気がついた。今までまがりなりにも社会的な生き物として生きてきて、ようやく。

ここに色々書いてる時点で割と矛盾してる気がする。そもそも、自分の考えを持って話す知人に憧れこのブログをはじめた側面もあるというのに。

整理する。
自分の意見を言うのが嫌い。
自分の考えを分かりやすく伝えることが嫌い。
嫌いというか、その手間を疎ましく思う。

これを是として認めているわけではない。
プレゼンやアドリブが苦手なことはここに起因しているのでは?

物書きとして失格のようにも思う反面、言葉は自分の思想を伝えるだけのツールではないはずだとも縋るように思っている。言語よ、この身勝手な感情の受け皿になってくれ…

もう少しだけ考えると、自分が物を書くというのは「形になる快楽」を追っているのかもしれない。
快不快で考えるとは、まるで赤ん坊だ。

話を戻すと、このように断言して書くのも苦痛でしょうがない。
「嫌い」というあまりにも強いキーワードを使うことが一番「嫌い」。
矛盾だらけだ…。

(いつか修正する、または記事を消す、それかちゃんと向き直って成長を果たす、あるいはその前に死ぬ)
2019年はもうはじまっている。